ゆきぼうさんちのぽおとふぉりお

自創作を公開しています。

【小説】かみさまのいるせかい SideB EP1

第一話「聖ヶ丘にようこそ」

 

 聖ヶ丘市。

 都心から電車でおよそ四十分のこの街は、都心へ通勤する人々の「住」を担う、いわゆる衛星都市、ベッドタウンだった。

 戦後の混乱の最中、住宅の供給を目的に、住宅整備公団が、荒れ果てた都心から離れた場所に計画的に多くの宅地を整備して、そこへ鉄道を敷いていった。労働者は昼間は都心であくせく働き、夜は家に帰って眠る。そういうルーティンを繰り返すための、街の名を冠しているだけの寝床。それが高度経済成長期、バブル崩壊、そして二十一世紀の幕開けまでの聖ヶ丘という街の全てであった。

 状況が変化したのは、街の名士である神園大次郎が、聖ヶ丘に幼稚園から大学までカバーする巨大な学校法人を設立すると表明した時だ。

 街の中心にある市民ホールで大掛かりな記者会見を実施した大次郎は、聖ヶ丘という街の規模には不釣り合いな数の大勢のメディアを集めて、聖ヶ丘が都会と地方都市の特色を兼ね備えた理想的な都市になれるポテンシャルを持っているということを二時間にわたって熱弁し、この学園都市計画が今後の日本の地方都市再生のモデルケースになり得ると、何度も何度も、まるで人々の脳裏に直接文字を刻みつけるかの如く訴え続けた。

 その後、全国的に少子化が進む中、あまり体力のない学校は次々と統廃合の憂き目に遭い、聖ヶ丘に続いて学園都市計画を掲げる街はほとんど現れなかったが、そんなことは歯牙にもかけずに、大次郎は聖ヶ丘園都市計画に有り余る私財を投じ続けた。

 もう半世紀以上にわたって、単なる駅としての機能以外持たなかった聖ヶ丘駅は、巨大な円形競技場のようなテナントビルへと生まれ変わり、駅前はさながら未来都市のように美しく整備された。そこから一直線に、幅三十メートルを超える歩道が数百メートル伸びた先に、国内でも稀な、強化ガラスをメインに使用した佇まいの、ひとことでいえば空飛ぶ円盤のような建物が鎮座している。これこそが今や聖ヶ丘市のランドマークとして聳える聖ヶ丘学園である。

 聖ヶ丘学園には現代建築の最先端テクノロジーが多数使用されている。

 建物をぐるりと囲む強化ガラスには全面に液晶ディスプレイが圧着されており、電圧をかける事で液晶粒子の並びを変え、光を散乱させて曇りガラスのようにすることができる。これにより高いデザイン性を維持しながら生徒のプライバシーを保護することができる。

 学習スペースは一つ一つの席が独立しておらず、一般的な大学に見られるような講義机イスを採用。教室と廊下が一体化しているオープンスペースで、用途に応じて中央のスペースを区切って、便宜上二つの違った教室へとすばやく変更することもできる。また、教室三つごとに階段が、六つごとにエレベーターが設置されており、三階建てのフロアをストレスなく移動することが可能だ。円形の校舎の中央部は、自然環境の学習スペースや校庭、さらには牧草地や果樹園を兼ねており、かなりの広さの緑地と森林で成り立っている。

 驚異的なのは、これだけの最新設備を揃えながら、直径四百五十メートル、一周千六百メートルの屋根にびっしりと敷き詰められた太陽光パネルで全ての電力を賄っている事である。万が一の非常電力は当然ながら用意されているが、外部電源に頼った設備は一つもない。もちろん有事の際は外部電源を接続することも可能になっており、学食を市民の食堂として開放したり、大教室や講堂を避難所として利用する際も万全の体制で臨めるように職員は訓練されている。

 こうして、信じられないくらいの予算と労力をかけて完成した聖ヶ丘学園は、当然の如く脚光を浴び、瞬く間に全国の学生の憧れの的になった。今では全国で三位の入試難易度を誇る名門私立学校として名を馳せている。

 

 と、ここまで読んで、枢木オーディットは駅に置いてあった聖ヶ丘市のパンフレットを閉じた。

 彼女が生まれたのはアメリカ合衆国。その後二歳の頃に両親と一緒にイタリアに移住して、そこで成人するまで過ごしてきた。日本人の血が入っているとはいえ、オーディットにとってこの国は完全な「外国」だった。

 オーディットは日本人の父とイタリア系アメリカ人の母の間に生まれた。日本人とのハーフにしては珍しく、彼女はブロンドの髪と透き通るようなブルーアイを成人しても保っていた。だが、顔立ちがどうしてもアジア風なので、学生時代はあまり友人ができなかった。

 家庭内で日常的に日本語が使われていたため、日本語の理解や読み書きはなんの問題もない。ただ、それは彼女が日本語話者であるということ以上の意味を成さなかった。日本の文化や作法などはほとんど何も知らないのだ。なので、初めて来た「母国」であるにも関わらず、オーディットは不安で仕方がなかった。「仕事」でなければ一刻も早くイタリアに帰りたい。だが、そうするわけにはいかなかった。日本に来る羽目になったのは、それがオーディットにとって仕事であると同時に、家庭の事情も絡んでいるからなのだ。すなわち、この件は彼女にしか解決できない。彼女の手によって解決されなければならない。誰かを頼ることはできても、その誰かに委ねることは許されない。

 だからこそ、憂鬱で仕方がなかったのだ。

 駅に着くと、オーディットは人の流れとは逆方向に歩いて行った。

 ホームの端まで行くと、そこに小さめの、しかもかなり年季の入った階段があった。聖ヶ丘駅が今のような形になる前からある、西改札口に繋がっている階段だ。

 前日まで降っていた雨が染み込んでいるのか、ヒビのようなものに沿ってコンクリートの色が変わっている。今すぐにどうにかなるような古さではないが、近代的な輝きしかない中央改札口から比べると、こちら側の階段はどうしても頼りなさを感じるものだった。加えて、照明が極端に少なく、バリアフリー法が施行される前のものであることから、手すりすら設置されていなかった。

 聖ヶ丘学園ができる前とは違って、今では中央改札口からさまざまな公共交通機関が使えるため、この西改札口を使う人はもはやほぼゼロであると言っても差し支えない。そのため、この階段にはチェーンがかけられており、万が一ここを通りたい場合は駅のスタッフに連絡するように促す札がかけられていた。オーディットは立ち止まり、ふと辺りを見回してから、迷いなくチェーンをくぐって階段を登って行った。そして、登った先に設置されているICカード端末にスマートフォンをかざして、およそ改札という言葉には似つかわしくない無人駅のような作りの出口から駅の外へと出た。

 西改札口の外には舗装すらされていない砂利道があった。数メートル歩いてからオーディットは一度振り返ってみた。今出てきた駅舎の向こう側に、聖ヶ丘駅のテナントビルが見える。あれだけ立派な、しかも円形のビルなのに、この駅舎は前世紀に建てられた状態のまま取り残されている。

 イタリアの田舎の駅もこんな感じの古くて狭い階段があって、しかも改札などというものすらなく、誰でも出入り自由だった。場合によっては見送りの人が電車の中まで入り込んで来るほどだった。イタリアに移住して二番目に住んだ街がトスカーナの田舎町だったが、オーディットは、ふとその時のことを思い出していた。

 一瞬の感慨に耽った後、オーディットは駅とは反対方向に向き直り、スマートフォンのマップアプリを立ち上げた。これから行く場所はこのアプリには登録されていないが、住所は知っている。目的地をセットして、案内開始のボタンを押して歩き出した。アプリによれば目的地まで歩いて十五分。駅の近くの林を抜けて丘を目指していくルートのようだ。

 まったく整備されていない小道を歩いて行くと、昔は何かの店だったような建物が二、三軒あった。草が生え放題で、窓ガラスは割れており、サッシは錆びついている。廃屋という言葉が文字通り当てはまる光景だった。イタリアでも田舎にはツタが這い回っている古い石壁の家がたくさんあるが、それでも人の手が入っているとすぐわかるものだ。

 電車の中で読んだパンフレットによれば、この街が今のような発展を遂げ、人の導線が完全に変わってしまってから、わずか二十年かそこらのはずだが、目の前にある廃屋はもっとずっと長い間放置されていたように見えてしまう。オーディットが現在自宅を構えるローマには千年どころか二千年前に建てられた建物さえあるというのに、この廃屋はそれより古い物と錯覚するほどの荒廃ぶりだった。実際、オーディットが現在住んでいるのは、ユリウス・カエサルが建築を始め、アウグストゥス帝の時代に完成したマルチェッロ劇場アパートである。

 マルチェッロ劇場も、ローマ帝国崩壊後は打ち捨てられ、半分ほど川の砂利に埋もれていた時期があった。今では世界遺産として観光名所にもなっているが、中世までは単なる廃墟としてマルチェッロ神殿と呼ばれ、その後要塞として使用された後に、所有者を転々としながら十六世紀に住居への転用がなされた。忘れ去られていた廃墟は、今や夜にはライトアップされて、夏になれば野外コンサートも開かれる、正直住むにはあまり向いていないような場所へと生まれ変わっている。ローマの厳しい景観保護条例によりエアコンの室外機を設置することも、窓枠を木製ではなくアルミサッシにすることも、挙げ句の果てには洗濯物を窓の外に干すことも許されていない。でも、オーディットはどうしてもそこに住みたかったので、不便な部分には目を瞑って日々を過ごしていた。

 気を取り直して先に進むと、目の前に広がっているのはもはや道ですらなく、荒れ放題の藪だった。誰かが通った形跡は全くない。一応アプリはこの「道」で合っているような表示をしているが、正直いってオーディットの頭の中ではむしろ不安の方が強くなっていった。人の痕跡が全くないというのに、この先の丘に本当に目的地が存在しているのだろうか。アプリには情報がなく、GPSを頼りに進んでいるが、そこに道はない。さながら人類未到の地を旅する探検隊の如く、前に進むために何度も草を踏み倒し、まさに道を切り拓きながら進んでいる。マップに表示されている道を、いま自分が作らされているのではないかと錯覚してしまうほど、オーディットは自分がやっていることに自信を持てなくなっていた。そして、駅を出てから四十分が経過しようとした時、ようやく丘を登り切ることができた。

 オーディットは駅で何か飲み物の一つでも買ってこなかったことを後悔していた。日本ではイタリアと違って飲み物や食べ物を買える店がそこかしこに散りばめられていた。しかも、店どころか自動販売機もそこらじゅうにあって、いつでもどこでも何かを買うことが出来た。飲み物は総じてイタリアよりだいぶ冷たい温度で売られているが、この国はどうも湿気が強いらしく、その冷たさが心地よかった。そして、今のオーディットにとって最も欲しいものがその冷たい飲み物だった。だが、今自分がいる場所は同じ日本でも荒れ果てた草だらけの丘の上だ。ローマ建国の英雄、ロムルスとレムスは、自分たちが捨てられていた丘に自分たちの国を建国しようとしたわけだが、オーディットはこんな丘ならばアムリウスがロムルスとレムスを捨てようとしたのもわからないでもないなどと、妙な想像をしてしまっていた。

「後はテヴェレ川があれば完璧だったな」

 と、冗談めかして周囲を見渡した時、少し離れた場所にポツンと建物が立っていることに気がついた。オーディットは急いでマップアプリとGPSを使って、自分が今いる場所とその建物を照合してみる。そして、そこが目指していた目的地であることを確信した。

「あれが… セラエノ…」

 オーディットは安堵して、喉の渇きも忘れてその建物へと近づいていった。だんだんと草の荒れ具合もマシになってきて、建物に着く頃にはちゃんと整備されている道が反対側に続いているのが見えた。なんとなくどういう事なのか察したオーディットは、一人で苦笑いしながら建物の看板を見た。そこには「古書 セラエノ」と書かれていた。    

 ようやく目的地に辿り着いた。そして冷静になって考えを整理してみて真実がわかった。どうやら今自分が切り拓いてきた人類未到の地は、そもそも道ではなかったようだ。マップをフリックしていくと、隣の駅である翠乃から続いている道がちゃんと表示されていた。要は、この古書セラエノの最寄駅は聖ヶ丘ではなく、隣の翠乃駅だったのだ。この道すがら自分が色々思いを馳せてきたことが急に恥ずかしく思えた。

 とりあえず入ってみよう。そう思い直して、改めて建物の外観を見る。木造の小綺麗な建物で、まるでおとぎ話に出でくるような、およそ日本という国には似つかわしくない風情がある。壁だけでなく屋根まで木を組み合わせて作られており、全体的に鋭角に空に伸びている。高さはじゅうぶんだが、外から見た造りではおそらく2階に相当する部分はないように思えた。自分が今日本にいなくて、本を広げた時にこの建物の写真が出てきたのならば、間違いなく西欧のどこかで撮られた写真だと勘違いするだろう。

 オーディットはドアの取手を手に取り、どちらに開くかやってみた。というのも、日本は家に入る時に靴を脱ぐという文化があり、大抵の扉は外開きだと聞いていたからだ。だが、この扉はどうやら内開きのようだった。よくよく考えてみれば、いかに日本とはいえここは店である。当然靴を脱ぐ必要はないわけで、少々考えすぎたと感じながら、少し軋む音を立ててドアを押し開いた。そして、眼前の光景に息を呑んだ。

 セラエノの中に入ると、外から見た時よりもずっと広く感じた。一般的な人間の背丈よりも遥かに高い本棚がずらっと並んでいて、そこにギッシリと本が並べられている。背表紙を見るとどの本も日本語ではなく、英語やドイツ語、フランス語、スペイン語ギリシャ語やラテン語のものもあった。装丁も単なるハードカバーだけではなく、宝石が散りばめられた一点物の豪華なものや、おそらく動物の皮を使用していると思しきものまで多岐にわたっていた。

 活版印刷が普及する前は、本は貴重なものだった。文字を書くことのできる人が限られていた時代はなおさらで、本は写本することによって複製されていった。そして、あるものは財産として貴族のコレクションに加えられ、あるものは修道院で教育に使われるために大切に保管された。数百年の保存に耐えうるべく、堅牢な装丁で、なおかつ耐久性が極めて高い羊皮紙に書かれることが多かった。時代を経てスクロールからコーデックスへと本の形態は移り変わって行くが、十八世紀から十九世紀にかけて木材パルプから現在でいう紙が大量生産できるようになるまでの長い間、人類は動物の皮を加工した羊皮紙か、草から加工するパピルスを利用し続けた。両方とも庶民が簡単に手にできる代物ではない。故に、本は資産として扱われていた。

 この店の本からも、そういった「大切にされてきたもの」の雰囲気を感じ取ることができた。建物が木造なのも、湿度が高い日本の気候を鑑みて、木の力で湿度をある程度調節しているのだろう。当然空調も使われているだろうが、この国で古来より木造建築が発展してきた理由は、その気候に対応する必要があったからだと、以前学校で習ったことがある。

 本棚の奥に、ほんの少しだけ開けたカウンターと思しき空間があり、そこに人が座っているのが見えた。だが、それはオーディットが思い描いていた人物とはまるで違うものだった。

 ふんわりした髪を緩く後ろで束ね、背筋をピンと伸ばした姿勢でゆっくりと本のページをめくっているその女性は、オーディットを目に留めるとにっこりと笑って話しかけてきた。

「いらっしゃいませ。本日はどういった本をお探しですか?」

 まるで聖歌隊のような透き通るような美しい声で話しかけられて、オーディットは目を見張った。今までこのような美しい声の持ち主に出会ったことはない。字面は完全にビジネストークであるのに、彼女の声は心に深く染み込んできた。もう少し余韻に浸っていたい気持ちに駆られたが、我に返って返事をした。

「わたしは枢木オーディット。この古書店セラエノの店長、ノーデンス殿に個人的な用事があって来ました。取り次いでもらえますか?」

 それを聞いたカウンターの彼女は、少し残念そうな表情をしながら、しかしながら笑顔で答えた。

「ああ、店長ですか。残念ですが、店長はいま私用で出かけています」

 そういう事態も想定しておくべきだった、とオーディットは心の中で舌打ちした。全てが順調に進んだ時のことしか考えていなかった自分に、ほんの少し苛立ちを覚えた。ただの任務なら逆にもっと熟考することも出来たかもしれないが、いかんせん今回は事情が事情だったため、今振り返ってみても行き当たりばったりな計画しか立てられなかった。いや、計画というのも烏滸がましいかもしれない。

「それなら、店長が帰ってくるまでここで待っていても構わないですか?」

 遅くとも夜までには、という打算があったのは確かだ。だが、そんな淡い期待も次の一言で粉々に打ち砕かれることになってしまった。

「それが、店長はいま買い付けのために海外に行っているので、いつ帰ってくるのかはわからないんです。年単位で帰ってこないとこもよくあるので、待つのはお勧めできません…」

 笑顔ではあるが申し訳なさそうな意を感じ取れる声で彼女はそういった。

 正直にいってかなりまずい事になったとオーディットは感じていた。当然外国に来ているのだから、今日だけで用事が済んでしまうとは考えていなかったが、まさかこの古書店の店長と会えるのがいつになるのか見当もつかないとは、微塵も考えたことがなかったからだ。何日か待つのであれば適当な宿を取ってという手段も取れるが、期限が不明では予定も立てられない。いったんイタリアに帰るべきか、あるいは上に事情を説明して指示を仰ぐべきか。どうすべきか悩んでいる最中、見かねたカウンターの女性が話しかけてきた。

「よければ、わたしが何かお力になりましょうか?」

 ありがたい言葉だった。だが、それは無理だ。この件は素人にはまず理解すらできない。だからこそ、今回は特別にツテを使ってこの店を紹介してもらったのだ。だが、おそらくアルバイトかなにかのこの女性に話しても、頭がおかしくなっただけだと思われるに違いない。

「残念だが、あなたでは力になれそうにない。申し訳ないが…」

 その矢先だった。

「あなた、検邪聖省の方ですよね?」

 その女性が発した単語「検邪聖省」を聞いた時、オーディットは目を丸くした。まさか一般人がその名前を知っているとは思わなかったからだ。

「その胸につけてるエンブレムを見ればわかります。検邪聖省の人はそれを誇りに思っているから、どんな時でもつけてますよね」

 確かに、オーディットの着ているこの白のコートの胸には、検邪聖省のエンブレムが付いていた。そもそもこれは支給されたものだ。我が教父様からこの任務を授かった時に与えられた。だが、このエンブレムが持つ意味を知っている人間が、まさか遠く離れた極東の地にいるとは、率直にいって驚き以外の何者でもなかった。だが、それだけに留まらず、彼女は続けた。

「ひょっとして貴方は聖騎士様ですか?お若いのに凄いですね!」

 彼女が目を輝かせながらそういってきた時、オーディットの心の中では驚きよりもむしろ警戒心が強くなった。あまりにも詳しすぎる。教父様から紹介された人物が留守でいつ帰って来るのかわからない上、一般人が知る由もない事実を知っているなどということがあり得るだろうか。この女性は一体何者なのか。一瞬何かの罠ではないかとの疑念も湧いた。だが、誰が、一体どうやって…

「随分と我々のことを知っているようだな」

 オーディットは語気をやや強めながらいった。とにかくこの女性の正体を知りたい。会話にじゅうぶん注意を払って、どこかにそのヒントがないかどうか精査しなければ。

「この店に検邪聖省の人間が来るとしたら、審問官か聖騎士かといったところですけど、貴方の佇まいからは、審問官の雰囲気は感じ取れなかったので、多分聖騎士様なんだろうなあと思っただけですよ」

 屈託のない笑顔で話す女性。オーディットはあまり対人コミュニケーションが得意ではないのだが、この女性が嘘をついているようにも思えなかった。どのみちこれが罠だったとしても備えはある。オーディットは賭けてみる事にした。

 コートの中、肩からかけていたバッグのジッパーを開き、中から銀色の物体を取り出した。

 一見するとブリキのような質感のそれは、蓋、もしくは皿のような形状をしていた。「蓋」の外側の表面には何かの穴が5つほど空いていて、中に突き抜けている。およそ三十センチほどの直径の「蓋」は、恐ろしく軽く頑丈である。艶消し塗装のような質感でありながら、並の金属では傷つけることすらできない。分析データによれば熱にもめっぽう強く、三千度以上の高温に晒しても変色すらしなかったらしい。

 現存する金属のどれよりも強い性質を持つこの「蓋」は、これ以上調べても何もわからなかった。もちろん正式に組成分析に出したわけではないので、然るべき機関で科学的な検査を長期にわたって行えば何かわかったかもしれないが、問題の性質上公の機関に依頼するわけにはいかず、教父様の指示でこの古書店に持ち込んだのだった。

 取り出した物体をカウンターに置いた途端、それをみる女性の目の色が変わった。

「あら、あらあらあら。これは変わったものをお持ちですね!」

 予期していなかった反応に驚いたが、その後の彼女の言葉にはさらに驚かされた。

「これはトゥクルという金属でできている、「脳缶」と呼ばれる機械の一部です」

「の、脳缶?」

 初めて聞く単語に戸惑っていると、カウンターの女性は笑顔で、しかしながら今までとは違った凛とした声で話しかけてきた。

「ああ、こういった事には詳しくないのですね。だから検邪聖省は貴方を店長に紹介しようとしたわけですか。」

 完全に立場が逆転したとオーディットは感じていた。自分がその道のプロで、彼女は部外者の素人だと決めてかかっていたのに、今や自分が完全に蚊帳の外に置かれている。全く予期していなかった事態に冷や汗すらかいていた。  そして、狼狽するオーディットを見て、彼女はいった。

「ちょっと気分を変えるために外に出ましょうか?」

 驚きに次ぐ驚きで、今更ながらオーディットは喉がカラカラなのを思い出した。そして、一息つこうという彼女の提案をありがたいとさえ思った。彼女に対する疑念などよりも、まずは落ち着いて考える時間が欲しい。

 カウンターから出て来た彼女は、何かを思い出した様子で振り向いたので、後から考え事をしながらついていったオーディットは危うくぶつかってしまうところだった。だが、そんな事を気にする素振りも見せずに彼女は続けた。

「そういえば、まだわたしは自己紹介してませんでしたね。わたしはマキナ。夢見マキナといいます。枢木オーディットさんでしたよね?聖ヶ丘にようこそ!」

 マキナがそう話しかけると、その透明感あふれる美しい声がオーディットの不安を和らげてくれた。

 オーディットは思った。もし、神の天啓が得られるのであれば、頭の中に聞こえて来るのはこういう美しい声なのではないかと。

 唯一絶対の神に仕える検邪聖省の聖騎士でありながら、オーディットは目の前の女性、夢見マキナが、さながら自分たちの教義には存在しない「女神」のように思えた。自分でも何故なのかはわからない。あえていえばヒトとしての本能がそう思わせたのではないか。

 ふと、心にそんなことが思い浮かんだのだった。

つづく

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